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ジョン・サーティース:ふたつの世界王者

ジョン・サーティース:ふたつの世界王者

先日亡くなったジョン・サーティースを偲んで、2013年にニック・メイスンが本誌のために実現させたサーティースのインタビューを紹介する

文: ニック・メイスン & ジェイソン・バーロウ

ジョン・サーティースOBE (大英帝国オフィサー勲章受章者)は、才能に恵まれた人だった。2輪(モーターサイクル)と4輪(F1グランプリ)レースで世界選手権タイトルを獲得した彼は、世界のいかなるスポーツ選手も到達できない存在だったと言える。おそらく2度と繰り返されることはない偉業だろう。世界最高レベルで戦ったと言うだけではなく、MVアグスタに籍を置き、ロードレース世界選手権で7つの世界タイトルを獲得。もちろん、1964年にはフォーミュラ1にフェラーリで参戦してF1世界チャンピオンの座に輝いた。さらに1970年には、自ら「チーム・サーティース」を立ち上げ、F1オーナードライバーとして成功を収め、チームは1972年欧州フォーミュラ2世界選手権のタイトルを手にした。これまでも本誌を通じて、貴重な取材の機会を色々頂いたが、ひょっとしたら今回が最も楽しい取材だったと、今振り返って思う。

ニック・メイスンと話すジョン・サーティース(2013年) <em>写真:ガス・グレゴリー</em>
ニック・メイスンと話すジョン・サーティース(2013年) 写真:ガス・グレゴリー

オフィシャル・フェラーリ・マガジン(TOFM):あなたは生まれながらのライダーだったと思いますか?
 
ジョン・サーティース(JS):自分の血の中に競争心が流れていた、と言った方がいいかもしれません。スポーツするほとんど人がそうだと思いますが。戦後、私の父はロンドンの南西部でヴィンセント・バイクを販売していたんです。父は自分が販売しているバイクでレースに出たかったんですね。自分でスピードトライアル・レースを計画したんですが、当日になって、父の同乗者がレースに来れなくなって、急遽私が父の大きすぎるレザージャケットを着て、バイクに乗ってレースに出たんです。ヴィンセントのバイクは速かったですよ。おかげで私たちはトップでゴールしたんです。残念なことに当時私は未成年だったので、父と私は失格になってしまったんですが、これが私の原点です。
 
ニック・メイスン(NM):公式レースでの最初の勝利は覚えていますか?
 
JS:ウェールズのアバーデアでのレースですね。おそらく私の人生の中で最も重要なレースのひとつだと思います。レースでは、ライダーがバイクと一体になることが非常に重要なんです。その一体感を始めて感じられてのが、この日だったのです。突然マシンが私に語りかけてきたんです。それが理解できたんですね。この時初めて私はレーサーになったんです!
 
NM: 有名なライトニング・スタートのテクニックについて教えてください。
 
JS: まずは即座に自分自身の心のスイッチをレースモードに入れること。そして、フラッグが振り下ろされる瞬間を感覚で掴む。次に自分のバイクの全てを本質的に理解していることも重要です。一発でエンジンが掛かるという自信もね。とにかくスタートとオープニング・ラップが重要です。ベッテルのようなドライバーを見れば分かるように、それが出来れば、後は安定してコントロール出来るようになります。どんなレースでも、はじめが肝心なんです。私達の頃は、今ほど信頼性はありませんでした。したがって、走り出してみないと、自分のマシンの状況を正確に把握することはできなかったんです。1周して調子が分かれば、あとは一定のパフォーマンスを維持できるようになります。それは予測可能だろう、と批判する人もいます。しかし、これは製作途中の芸術作品を称賛出来ないのと同じだと思いますよ。

Ferrari 1512 で1965年度オランダGPを戦う <em>写真:ゲッティ・イメージズ</em>
Ferrari 1512 で1965年度オランダGPを戦う 写真:ゲッティ・イメージズ

TOFM: フェラーリとの最初の交渉は断った、という有名な話もあります。
 
JS: モデナで初めてオールド・マン(エンツォ)に会ったときのことは覚えています。「いやだ、F1の世界についての知識もないし、この危険この上ない世界には入りたくない」と思っていたんです。準備ができていなかったんですね。1年間(1960年)、ロータスでいくつかのレースに参戦しました。チームはナンバー1ドライバーの待遇を提示してきたんですが、契約上の問題があってそれを断り、マシンも参戦する機会も失いました。そこでフェラーリから声がかかったんです。「うちに来てくれ!すべてが変るぞ!テストを受けてくれ。F1はもちろん、スポーツカー・プロトタイプもやるつもりだ。ナンバー1になろう」
その時、在籍していたMVアグスタも同じような目標を掲げていたんだけれど、彼らの戦力は、やや落ち込んでいたんだ。その当時は気がつかなかったけれど、恐らく私はイタリアのチームと相性が良かったんだろう。凄くリラックスして楽しんでいたんです。
 
TOFM:MVアグスタがフェラーリへの移籍を手配したのですか?
 
JS:ある部分はね。しかし、カウント(ジョバンニ)アグスタは、モーターレーシングの世界における歴史が浅かったんです。個人的な名声に関してはね。彼は非常に熱心な男でしたが、貫徹するほどの力はありませんでした。エンツォは、明らかにモータースポーツの世界で育った人なので、状況は違っていました。ただし、彼の息子を襲った悲劇は、その後エンツォの物事の進め方にはっきりと影響を与えました。彼は実際のレースとの接点を絶ったのです。私の最大の問題は、しばしば現場から彼の耳に誤った情報が伝えられることでした。エンツォは、事実と異なることを聞かされていたんです。ファンジオが私に言ってくれたことを覚えています。'Stai attento. Molto pericoloso ... '(気を付けろ。非常にデンジャラスだから……)

1970年代マシンのむき出しのシャシーに向き合うサーティース <em>写真:ガス・グレゴリー</em>
1970年代マシンのむき出しのシャシーに向き合うサーティース 写真:ガス・グレゴリー

TOFM:エンツォはいつもサングラスをかけていましたからね。文字通り、あるいは比喩的にグラスを外すことはあったのでしょうか?
 
JS: ほとんどありませんでした。ただ、エンツォは、自分の車にMiniのサスペンションを使いたいとまで話していたほどMiniの大ファンだったんです。自分は助手席に座ってお抱え運転手にアドリア海の自宅まで送らせていました。私もMiniに乗って彼と旅行したことを今でも覚えています。そんな時は別人でしたね。マラネッロでは王のような存在でしたけれど……。
 
NM:フェラーリとは良好な関係を築きましたね。ですが、紆余曲折あったと。
 
JS: (一時沈黙)私はせっかちな人間でした。まだ若かったし、尖っていました。今振り返ってみると、もっと慎重に説得できたんじゃないかと思います。とはいえ、自分はフェラーリ・ファミリーの一員だという感じはしていましたし、今もそう思っています。全てに同意は出来ませんでしたが、家族ってそういうものじゃないですか?

1963年度イタリアGP前日にエンツォ・フェラーリと エンツォ・フェラーリと <em>写真:ゲッティ・イメージズ</em>
1963年度イタリアGP前日にエンツォ・フェラーリと エンツォ・フェラーリと 写真:ゲッティ・イメージズ

TOFM:そして1966年のル・マン24時間レースで事態は急展開した……。
 
JS:決勝前に(チーム監督のエウジェニオ)ドラゴーニが私に言ったんです。「アニェッリさんがスタンドにいる。ルドビコ・スカルフィオッティ(アニエッリの甥)でレースをスタートさせたい」と。私はルドビコが好きでした。名前は言いたくはありませんが、一人を除いて、すべてのドライバーが好きでした。ドラゴーニの一言でモチベーションは一変してしまったんです。「ここにレースをしにきたのだろう?スパの後で私を批判しただろう!私はもうチームに相応しくないってことか?ならば、さよならだ!」私はマラネッロへ戻り、Old Man を探しました。(長い沈黙)あまり喜ばしい面会ではありませんでした。(頭を振る)残念でした。ファクトリーのゲートから歩いて出て行く私の写真があります。「離婚」という見出しが添えられていました。違った振る舞いもできたでしょう。少なくとももう1回はフェラーリでチャンピオンになれたでしょう。後にディーノの名と一緒に自身の名が掲げられることになるイモラ・サーキットで、Old Manが晩年、私に言ったことはずっと忘れません。F40を発表した頃です。「記憶に留めておくべきは楽しく過ごした時間だ。間違った時のことを覚えていても仕方が無い」

 

 

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