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正しい判断

正しい判断

The Official Ferrari Magazine(オフィシャル・フェラーリ・マガジン)では、毎号、フェラーリにまつわる短いストーリーを掲載しています。どれも世界的なライターらが、特定の車両のデザイン、カラー、テクノロジーからインスピレーションを受けて綴った作品です。今回の作品は、雑誌『ザ・ニューヨーカー』の編集担当者であるとともに、いくつかの本の筆者でもあるベン・グリーンマンが書き下ろしたもので、実業界を舞台にしたラブストーリーとなっています。2人のエグゼクティブが、互いへの情熱や各自のキャリアを軸にさまざな物語を展開させます。いったいどのような結末を迎えるのでしょうか?1台のFerrari F8 Tributoが鍵を握っています。

ベン・グリーンマン

じっとしていることが最も手っ取り早い手段である場合もあった。彼の脳裏にはこのフレーズが焼き付いていた。彼は空港で足止めを食っていたのだ。この考えは、彼が自分で生み出したものではない。以前、どこかで読んだことのあるものだ。誰かが思いつき、 誰かが勇気を持って口にし、 誰かが文字にしたものである。フレーズ自体は完全に覚えてはいたものの、彼はそうした考え方を自分のものにできていなかった。だとしたら、その考え方が彼に取り付いたのだろうか?彼は、その考え方を心の中で強く意識した:「じっとしていることが最も手っ取り早い手段である場合もあった」。そうすることで、彼はひとしきり気分が楽になり、周囲の様子をはっきり認識することができるようになった。空港の慌ただしさ、パイプを伝ってくる匂い、自分が一度も話したことのない言語など。

彼は日本での1ヵ月におよぶ仕事を終えて帰国するところだった。上司のホーキンスが今回の出張について彼に話をしたとき、彼女は急な知らせであることを詫びた。「物事は警告なしに起きることがあるの」と話したうえで、彼女は眉をひそめた。眉をひそめたのは意図的な行為ではなかった。彼女は自身の表現方法をコントロールすることで出世の階段を上ってきたである。深く考えているように見せたり、明るいトーンで話したりすることを、タイミングを見ながら行ってきたのだ。オフィスでの振る舞いに注意していたのである。彼に知らせることがあったために彼女が彼を呼び入れると、 彼は彼女の机の反対側にある一人掛けの椅子に座った。彼女が彼の出張について話すと、彼女は急な知らせであることを詫びた。その後、彼女は笑みを浮かべるところだった。しかし、彼女の口角が下がったままのときに 彼が視線をそらしていたことから、彼女は彼が自分に目を向けていたのか分からなかった。彼が視線を送っていたのは彼女のネームプレートで、 そこには『K. Hawkins 副社長』と記してある。

新世代のステアリングホイールを備えたF8 Tributoのコックピット。写真:Roberto Carrer
新世代のステアリングホイールを備えたF8 Tributoのコックピット。写真:Roberto Carrer

そのネームプレートは、彼女が出世したことを唯一示していた。また、フェラーリも彼女が出世したことを示すアイテムだと言えるだろう。
彼女は初めて手にした大きなボーナスでその車を購入していた。ずっとその車を絶賛していた彼は、何度かそれに乗ったことがある。仕事のイベントで彼女が飲み過ぎてしまった際、彼女を自宅へ送り届けるために運転したこともある。「ちょっと飲み過ぎてしまったようだわ」と、彼女は話した。「車で送って欲しいんだけど」。
2人はその晩を共にした。そして2日目と3日目の晩も。彼は彼女に夢中になっていたが、その関係が良くないものであることを彼女に伝えられるだけの分別は持っていた。
「わかったわ」。彼女はそう言ったが、その口調は彼女の気持ちが言葉とまったく逆の状態であることを明確に示していた。現在、2人は企業戦略に関する業務に携わっている。それは、あの最初の晩と同じくらいに気持ちを高ぶらせる。「トラベル部門からあなたのチケットが届くわよ」と、彼女が言うと、 「私の自宅に?」と、 彼は尋ねた。「私の自宅に届くわけないでしょ」。そう言って彼女は微笑んだ。彼女は双方の手のひらを机の上において、ミーティングが終了したことを示した。
デービスが飛行機で飛び立つ日の朝、彼は会社の車に拾われて空港へ向った。出発ゲートで待っていると、メールの着信を知らせるべく携帯が鳴った。ホーキンスからである。「すぐにまた会いましょう」という内容だ。
フライトの最中、彼は色々なことを考えていた。そのほとんどは彼女のことである。
この短いメールに彼は喜び、眉をひそめる彼女を思い出した。しかし、離れている間、彼は彼女に連絡しないと自分に約束していた。連絡する特別な理由もなく、二人の再開が影で覆われるだけだろうと考えたのだ。「正しい判断を示すんだ」と、彼は自分にアドバイスした。
その月は海外の名古屋に滞在し、前年度に開設したオフィスの人員を増やすことに努めた。彼の前任者である若いスぺイン人女性が予告もなく辞めてしまったため、彼が突然出張することになったのだ。
彼は連日、応募者の面接に時間を費やした。彼のアシスタントは、ハラダ・ヒロシという名前の、いつも幸せそうに見える若い男性で、自分のことを『ダブルH』と呼んでいた。ハラダは父の仕事の関係で2年間米国に住んでいたことがあり、カウボーイの映画に熱烈な興味を抱くようになった。
「私には『ダブルH』というランチ・ネームがあるんです」と、彼は明言した。
約半月が過ぎたころのある晩、全員が帰宅してしまっていたデービスのオフィスにダブルHがやってきて、唯一あった他の椅子にドスンと座り、「一緒に飲みに行こう」と誘ってきた。デービスには都合の良い断りの理由が見つからなかった。彼らは、オフィスから数ブロック離れたところにあるアメリカンス・タイルのバーへ行き、かつてのフットボール・ゲームのリプレーを観たり、女性バーテンダーと戯れたりした。

パッセンジャーにとって妥当なエンジン・サウンドになるようフェラーリは格段の努力をしてきました。写真:Roberto Carrer
パッセンジャーにとって妥当なエンジン・サウンドになるようフェラーリは格段の努力をしてきました。写真:Roberto Carrer

デービスが最初の1杯を飲み終えるまでに、ダブルHは3杯のビールを飲み終え、年上のデービスに対して自身の恋愛話ができるよう、さっさと準備を整えた。有松という小さな町に1人の女性がいて、 彼女のことが好きな彼は、いつしか彼女と結婚したいと思っていたのだ。しかし、彼は数多くの複雑な関係を抱えていた。デービスの前任者との関係もその一つである。「ひどい結末だったんです」と、彼は話す。「だから彼女は突然いなくなってしまったのかい?」 デービスは尋ねた。ダブルHは顔を赤らめながら、「今までにそんな経験ってありますか?」と返した。デービスはホーキンスのことをダブルHに話した。そして、本社に戻ったときに物事が上手くいくよう、どのように距離を置いているのかについても伝えた。「彼女にメールをしないようにしているよ。待っていればもっといいチャンスが来ると思っているんだ」と、彼は話した。「何か別の話をしよう」。彼はダブルHにそう促したうえで、 「趣味は何?」と尋ねた。
ダブルHは頭を傾けた。「本当に知りたいですか?」 デービスはうなずいた。
すると、「2つあります」と、ダブルHは答えた。
「一つは幾何学です。高校の時から好きなんです。外接円について考えてみて欲しいんですけど、 三角形の各辺に対して垂直二等分線を引くと、それぞれの垂線は三角形に外接する円の中心で交わるんです。これはどんな三角形の場合でも同じです。私にとって、これはとても美しいものに感じられました。3つの個別のものの結びつき方に普遍性があるというのです」。
「もう一つは?」 デービスは尋ねた。「もう一つは・・・・」、ダブルHは話し始めた。デービスは待ったが、何も出てこなかった。ダブルHはほとんど眠ってしまっていた。デービスは彼の肩を揺らした。「もう一つは・・・・」、ダブルHは再び話し始めた。今度はもっとやわらかな口調で。どうしようもない状態だったので、デービスはその若い男性を車で送ると、彼がアパートの階段を上がるのを手伝った。そして、ダブルHが大丈夫なのを確かめるまで待った。リビングには一人掛けの椅子の脇に小さなテーブルがあり、本が高く積まれていた。その中には、『How I Saw It』というタイトルの英語の本が含まれている。タイトルからは想像できないが、回顧録というよりは、認知についての学術的研究をまとめたものである。デービスは最初の章を読み始めた。それは次のように始まっていた。「じっとしていることが最も手っ取り早い手段である場合もあった」。
ダブルHがバスルームのドアのところに姿を見せた。彼は、「心配ありません」と言うと、 「私は大丈夫なので 帰っていただいても構いませんよ。ありがとうございました」と続けた。デービスが帰るとき、彼は小さなアパートの壁に三角形と円がいくつも描かれていることに気付いた。
デービスとダブルHは次の晩も、さらにはその次の晩も一緒に出掛けた。ダブルHが飲めるアルコールの量はどんどん多くなり、どれだけ飲んでも酔っているようには見えないほどになった。「3晩続けてですから三角形ができますよ」、ダブルHは言った。気分が高揚していた彼は、ふざけてデービスを女性バーテンダーとくっつけようとした。「アメリカの大金持ちなんだ」、とダブルHは彼女に向けてそう言った。
彼女は興味がないといった感じで手を振ったが、自分のシフトが終わると、ブラブラしながら彼らを待っていた。「誰かもう一杯飲みに行きませんか?」 彼女は尋ねた。ダブルHはデービスに向けて眉を動かした。
デービスが 「私はホテルに戻ろうと思ってます」 と言ったのに対し、 ダブルHは「では、私がご一緒します」と答えた。
次の朝、ダブルHは楽しそうに口笛を吹きながらオフィスにやってきた。「なぜ楽しそうにしているか気になりませんか」と、彼が言うと、 「分かってるよ」と、デービスは答えた。
「そうじゃないんですよ。彼女と一緒に家には行ったんですが、しばらくテレビを見ただけで私は帰ったんです。その代わり、有松にいる女性に電話をしたところ、 来週、彼女が来ることになったんです。
彼女には、こっちで一緒に住まないかと尋ねてみるつもりです」と、彼は話した。デービスは、「おめでとう」と祝福した。
「正しい判断だと思います」。ダブルHは誇らしげにそう言った。

F8の力強い側面はこの車両のスポーティーな特徴を際立たせているいっぽう、テール・ライトは308 GTBのような初期のV8ベルリネッタを彷彿させます。写真:Roberto Carrer
F8の力強い側面はこの車両のスポーティーな特徴を際立たせているいっぽう、テール・ライトは308 GTBのような初期のV8ベルリネッタを彷彿させます。写真:Roberto Carrer

デービスは飛行機の中で自分自身に同じこと言ったのを覚えていた。彼はホーキンスのことで突然頭がいっぱいになり、ダブルHが目の前にいることを忘れてしまうほどになってしまった。そのとき彼は言った。「彼女に会いたい」と。ダブルHは、「それはできませんよ」と返した。デービスは言葉を続けようとしたが、ダブルHはそれを遮り、 「あなたは木曜日に出発してしまうんですよ。彼女は金曜日になるまでここに来ないんです」と話した。
デービスが飛行機で母国へ向かう日の朝、彼はドライバーがホテルのロビーで彼を待っているという内容のメールを受け取った。彼は、ダブルHが待っているのだろうと思った。しかし、そこにいたのは、英語をほとんど話せない年上の男性だった。「お気をつけて」。彼はデービスを空港で降ろすと、そう言った。
デービスはホーキンスからメールが届いているのを機内で気付いた。その着信は、彼を少しばかりいら立たせた。帰国するまでは彼女と一切連絡を取らないという自分自身の約束を彼は守りたかったのだ。「あなたのために車を用意しておいたわ。会社の駐車場に置いてあるわよ」という内容だった。
送迎車の導入は、ホーキンスの前任者が在職中にスタートさせた、一つの革新的な取り組みである。8時間も座ったままの状態が続いた後は、ドライバーに運転をしてもらうのではなく、自分で運転がしたいと多くの人が思うのだ。
税関を通過すると、デービスは会社の車が置いてある場所へ向かって歩いた。彼は、ホーキンスがどんな車を用意してくれたのか気になった。この数年間にわたり、一種の共通認識が出来上がっていた。大きなセダンが用意されている場合、それは会社がその人のことを重視しているということを意味するというのである。一方、自身の部門全体を疎遠にした副社長の場合、イギリスで行われた娘の結婚式から飛行機で戻ってきた際、音のうるさいぼろぼろの古い車が駐車スペースに置いてあったことがある。1ヵ月後、その副社長は退職した。デービスが駐車スペースに近づくと、 そこにはフェラーリが置いてあった。彼は大声で笑った。
そして、彼はそれがホーキンス個人のものであることに気付くと再び笑った。彼は会社のアプリを使ってトランクを開けると、内部のシークレット・スポットからキーを取り出し、 車内に乗り込んだ。そして、オーディオ・システムの電源を入れ、適正なレベルまでボリュームを上げた。その後、彼はボリュームを一気に下げた。
エンジンのサウンドは、ミュージックと言っても過言ではなかった。
彼はホーキンスにメールの返信をした。「すぐにまた会いましょう」と。彼はまだ車を動かそうとしていなかったが、自身の気持ちは前へと向かっていた。じっとしていることが最も手っ取り早い手段である場合もあった。

 

作者について

ベン・グリーンマンは、雑誌『ザ・ニューヨーカー』の編集担当者です。本の著者でもある彼は、フィクションとノンフィクションの双方の分野において、『What He’s Poised to Do』や『Superbad』など、いくつかの本を執筆していています。彼の作品である『A Circle Is a Balloon and Compass Both』は、いくつかのストーリーを集めたものとされていて、個々のストーリーは、愛について疑問に思うことや、あらゆる現象についてのきわめて難解で問題のある部分がテーマとなっています。このほか、彼の好奇心の強さを示す作品として『Superworse』や『Please Step Back』などがあります。現在、彼は妻と2人の子供と一緒に、ニューヨーク・シティのブルックリンに住んでいます。

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